lunes, diciembre 25, 2006

『移動の技法』#1


「移動の技法」は予告なくやって来る。そのときわたしは古びたサニーの後
部座席に身を包まれており、その夜は大晦日の晩で、女友達の家族とともに
新年を祝ったのだった。(クンビアがまがりくねっていた)。わたしをゲレ
ロ地区にあるその家からセントロのホテルへと送り届けようとしていたのは
誰だったのか。その男をもうわたしは覚えていない。むしろ、こう言うこと
もできるだろう。その匿名性は、「移動の技法」のためのひとつの条件であ
ったと。車がレフォルマ・ノルテからラサロ・カルデナスを通って、どこか
の小道から突如としてソカロのサーキュレーションに入ったとき、「移動の
技法」はやって来た。ソカロは12月になるとその四面に巨大な電飾のモザ
イクを描き、クリスマスと新年を光り輝かせる。(..feliz navidad..feliz
año nuevo..)
それは一瞬のことである。その瞬間を捉えたものに幸いあれ。そしてまたそ
れは永遠でもある。が、永遠は捉えられない。車はゆっくりとその循環に入
り、大統領府と反対側の車線を走る。ゆっくりと、そう、ゆっくり。あるい
は停車したかも知れない。車窓が電飾を切り抜き、そのとき「移動の技法」
が訪れた。彼の顔面には電飾が明滅していたのだろう。彼は気づかない。記
憶されているのは疲労とある種の姿勢。それを形容することは、むずかしい。疲労とある種の姿勢。移動の技法。

lunes, diciembre 11, 2006

ピノチェットが死んだ


かつて下宿していたサンティアゴのアパートの窓からの景色です。遠くにかすかに雪を被ったアンデスが見えるのが分かるでしょうか?
アウグスト・ピノチェット将軍が亡くなりました。91歳でした。タイトルにリンクしておいた『El Pais』は、スペイン、ヨーロッパの新聞なので、「独裁者ピノチェット死亡」という見出しですが、チリの人たちにとってはそう単純な話しではないだろう。
部屋を一部屋貸してくれていたカルメンは、その建物そのものの家主で、詳しくは聞かなかったけれど、相当な資産家だった父親からそれを相続していた。ぼくは、あんまりちゃんとものを考えたこともない、ふつうのややリベラルな志向の日本人だった。あたりまえにアンチ・ピノチェットな話題を、夜のお茶の時間などに口にしていると、カルメンはピノチェット支持者であることが次第に分かってきた。1973年9月11日、彼女はサンティアゴにいて、車を運転していたけれど、空爆などまったくなかったと言い切っていた。国の経済状態はピノチェット時代の方がずっとよかったといつも話していた。1992年、バルセロナでオリンピックがあった年だ。
ぼくが、初めてチリを訪れたのは88年。まだピノチェット政権健在のときだった。翌年民主的な選挙が再開され、90年にエイルウィンが大統領になり民政へ移行した。誤解を生むだろうけれど、ぼくはピノチェット時代のサンティアゴの方が好きだ。もちろん、そこに住む人には色々あるだろうけれど、外資をコントロールしてチリ的なものが保存されていた。ベルリンの壁が壊れ、チリも民政化され、バルパライソの港にかつての共産圏の船がどんどん入っていたのに驚いた覚えがある。世界中の人は恐ろしく変わり身が早いと思った。町は、いい意味で言えば活気が戻ったのだろうが、ぼくにはチリ独特の静かさがなくなってしまったように思えた。それを人はまた違った風に、恐怖で黙らされていた人々が、歌を歌えるようになったとも言うのだろう。
神戸の北野にある、チリ料理店「グラン・ミカエル・イ・ダゴ」の壁にもピノチェットの写真、それもかなり巨大なものが掛けてあった。日本人のセニョーラに友人と一緒になってなんでなんだ?と絡んだこともあった。何人もの人に同じ事を言われていただろうセニョーラはうんざりしながらもかなり激高して、何か言い返していたが、ピノチェットを支持する理由が何だったかは忘れてしまった。主人のダゴさんは、ギター片手に、客に曲も振る舞っていて、そのときぼくはビオレタ・パラをリクエストしたと思うが、彼は「誰だそれ?」と言っていた。
そういう経験を積むことによって、たしかにピノチェットが指示して、たくさんの無実の人たちが殺されていったことは確かなことだが、そうしたひとつの時代の限られた条件内で生きている、その他のたくさんの人もいることもまた事実、その人たちひとりひとりにもその人の人生があって、ひとりひとりにピノチェットの悪行の責任を説いていっても甲斐がないのだろうと思うようになった。そもそもぼくは、一旅行者、傍観者が何を言えるのだろう?それに、そもそもぼく自身の問題が山積みだろうに。
一緒にセニョーラを責めた友人とも、色々あってすでに絶縁状態。カルメンとは3年前に再会した。来年またサンティアゴに行きたいと思っている。早く書いて出さなくちゃと、クリスマスカードが机の上に出しっぱなしになっている。

jueves, diciembre 07, 2006

いま、よみがえる南米のバロック音楽



先月万博公園にある国立民族学博物館であった、タイトルの催しに行ってきました。内容は今月の『Latina』に書いたのでそちらを見てほしいのですが、その準備のために読み返していたドゥルーズの『記号と事件』にあった文章。
「新しい時代になって神学的理性が崩壊し、理性は純然たる人間的理性に変貌するからです。しかしバロックそのものが、すでに神学的理性の危機をあらわしていた。つまりバロックとは崩壊しつつある世界を再構築する最後のこころみだったのです。分裂病の定義もこれとやや似たかたちでなされているし、いわゆるバロック型の舞踏と分裂病患者の姿勢が対照されたことすらあるのです。しかし、自分たちの世界は考え得るかぎりで最良の世界だ、とライプニッツが語るとき、この「最良」は古典主義時代の善にとってかわり、まさに善の破綻を前提にしているのだということを忘れてはならない。自分たちの世界が最良のものであるのは、それが善に支配されているからではなく、新しいものを産み出し、それを受けいれるのに適しているからだ。ライプニッツはそう考えるわけです。とても面白い考え方だし、ヴォルテールしても、まさかこの考え方を拒絶することはないでしょう。」p.269
今の時代を否定的に言うのは、いくらでもできるけれど、この箇所と同じ意味で、今の時代は面白いと思います。

sábado, diciembre 02, 2006

メキシコ・ドキュメンタリー映画祭



東京ではすでに終了している『メキシコ・ドキュメンタリー映画祭』。神戸でのプログラムもぜんぜんスケジュールが合わなくて行けなかったので、なんとかこの大阪での上映は行きたいところ。

viernes, diciembre 01, 2006

El país.com


長らく、El pais.esとして親しまれてきた、スペイン『El pais』紙のウェブ版が、先週からEl pais.comとして生まれ変わってますね。
スペイン本国だけでなく、スペイン語で書かれた新聞の頂点に位置する新聞として、尊重され、誇りもあるのだろうけど、ウェブ版も内容、デザインでも他の言語の新聞のウェブ版に負けないどころか、さらに上を行くような充実ぶりです。
一時、見出しからさらに記事を読もうとしたら、有料化されていたりと紆余曲折もあったんですが、Web2.0時代である現在、基本情報は無料で提供される時流に逆らわず、さらに過去の記事にも容易にアクセスできるようになってます。(そうえいば、最近グーグルも過去の記事の検索サービス始めてます)。
今回のドメイン変更で、最も変わったのは、映像関係のセクションが増設されていることで、ほとんど新聞の域を超えて、何のメディアか分からなくなっていてますね。