lunes, diciembre 11, 2006

ピノチェットが死んだ


かつて下宿していたサンティアゴのアパートの窓からの景色です。遠くにかすかに雪を被ったアンデスが見えるのが分かるでしょうか?
アウグスト・ピノチェット将軍が亡くなりました。91歳でした。タイトルにリンクしておいた『El Pais』は、スペイン、ヨーロッパの新聞なので、「独裁者ピノチェット死亡」という見出しですが、チリの人たちにとってはそう単純な話しではないだろう。
部屋を一部屋貸してくれていたカルメンは、その建物そのものの家主で、詳しくは聞かなかったけれど、相当な資産家だった父親からそれを相続していた。ぼくは、あんまりちゃんとものを考えたこともない、ふつうのややリベラルな志向の日本人だった。あたりまえにアンチ・ピノチェットな話題を、夜のお茶の時間などに口にしていると、カルメンはピノチェット支持者であることが次第に分かってきた。1973年9月11日、彼女はサンティアゴにいて、車を運転していたけれど、空爆などまったくなかったと言い切っていた。国の経済状態はピノチェット時代の方がずっとよかったといつも話していた。1992年、バルセロナでオリンピックがあった年だ。
ぼくが、初めてチリを訪れたのは88年。まだピノチェット政権健在のときだった。翌年民主的な選挙が再開され、90年にエイルウィンが大統領になり民政へ移行した。誤解を生むだろうけれど、ぼくはピノチェット時代のサンティアゴの方が好きだ。もちろん、そこに住む人には色々あるだろうけれど、外資をコントロールしてチリ的なものが保存されていた。ベルリンの壁が壊れ、チリも民政化され、バルパライソの港にかつての共産圏の船がどんどん入っていたのに驚いた覚えがある。世界中の人は恐ろしく変わり身が早いと思った。町は、いい意味で言えば活気が戻ったのだろうが、ぼくにはチリ独特の静かさがなくなってしまったように思えた。それを人はまた違った風に、恐怖で黙らされていた人々が、歌を歌えるようになったとも言うのだろう。
神戸の北野にある、チリ料理店「グラン・ミカエル・イ・ダゴ」の壁にもピノチェットの写真、それもかなり巨大なものが掛けてあった。日本人のセニョーラに友人と一緒になってなんでなんだ?と絡んだこともあった。何人もの人に同じ事を言われていただろうセニョーラはうんざりしながらもかなり激高して、何か言い返していたが、ピノチェットを支持する理由が何だったかは忘れてしまった。主人のダゴさんは、ギター片手に、客に曲も振る舞っていて、そのときぼくはビオレタ・パラをリクエストしたと思うが、彼は「誰だそれ?」と言っていた。
そういう経験を積むことによって、たしかにピノチェットが指示して、たくさんの無実の人たちが殺されていったことは確かなことだが、そうしたひとつの時代の限られた条件内で生きている、その他のたくさんの人もいることもまた事実、その人たちひとりひとりにもその人の人生があって、ひとりひとりにピノチェットの悪行の責任を説いていっても甲斐がないのだろうと思うようになった。そもそもぼくは、一旅行者、傍観者が何を言えるのだろう?それに、そもそもぼく自身の問題が山積みだろうに。
一緒にセニョーラを責めた友人とも、色々あってすでに絶縁状態。カルメンとは3年前に再会した。来年またサンティアゴに行きたいと思っている。早く書いて出さなくちゃと、クリスマスカードが机の上に出しっぱなしになっている。